①の続きになる。
ここで興味深いのは、古人大兄(ふるひとのおおえ)の謀反事件の共犯者である。『日本書紀』大化元年(六四五)九月三日条には、次のようにある。吉備笠臣垂(きびのかさのおみしだる)の自首に先立つ記事である。
戊辰(ぼしん、三日)に、古人皇子(ふるひとのみこ)、蘇我田口臣川堀(そがのたぐちのおみかはほり)・物部朴井連椎子(もののべのえのゐのむらじしひ)・吉備笠臣垂(きびのかあのおみしだる)・倭漢文直麻呂(やまとのあやのふみのあたひまろ)・朴市秦造田来津(えちのはだのみやつこたくつ)と、謀反(みかどかたぶけむとはか)る。
垂(しだる)が自首したのは、十二日だから九日後のことになる。ならば、この記事は、謀反の謀議があった日と考えてよいのだろう。その顔ぶれが注意を引く。一人一人見ていこう。なお、蘇我田口臣川堀(そがのたぐちのおみかはほり)は、ここ以外に記事がなく、どのような人物かはわからない。
・倭漢文直麻呂(やまとのあやのふみのあたひまろ)
『日本古代人名辞典』第六巻(吉川弘文館)によれば、白雉五年(六五四)二月、遣唐判官として渡唐した大乙上(だいおつじょう、正八位相当)書直麻呂(ふみのあたいまろ)と同一人であろうとする。書直(ふみのあたい)は、東漢氏(やまとのあやうじ)の一族とされる。これが、正しければ、謀反の謀議に加わってはいても、九年後、何の処断も受けずに、遣唐使の一員に選ばれていたことになる。
・朴市秦造田来津(えちのはだのみやつこたくつ)
田来津も、何の処断も受けず、むしろ中大兄によって、武人として重用されている。「天智即位前紀」斉明天皇七年(六六一)九月、百済滅亡を受け、その再興を図るため、日本滞在中の王子豊璋(ほうしょう)を帰国させたが、その際、兵五千余を率いて豊璋を送る役目を果たしている。時に小山下(しょうせんげ、正七位下・従七位上相当)とある。その後も、田来津は百済の地に留まり、天智天皇二年(六六三)、白村江の戦いで、唐の水軍に大敗、戦死を遂げている。
・物部朴井連椎子(もののべのえのいのむらじしい)
問題は物部朴井連椎子である。『日本書紀通釈』は、これを「斉明紀」斉明天皇四年(六五八)十一月五日条に見える物部朴井連鮪(もののべのえのいのむらじしび)と同一人であるとする(『日本書紀通釈』巻五十七、巻六十)。これを承けて、新日本古典文学全集『日本書紀③』頭注も「同一人か」と注する。なお、『通釈』は、「椎子」をシヒコと訓んだ可能性についても触れている。
もし「椎子」が「鮪」と同一人であるなら、実に興味深い。なぜなら、「斉明紀」の当該条は、蘇我赤兄(そがのあかえ)の策謀に嵌(は)められたために、有間皇子(ありまのみこ)の謀議が発覚し、有間皇子以下が捕縛されたことを語る記事だからである。鮪は、赤兄の命を受けて、有間の捕縛に向かった人物である。
是の夜半(よなか、十一月五日)に、赤兄(あかえ)、物部朴井連鮪(ものべのえのゐのむらじしび)を遣(つかは)し、造宮(みやつく)る丁(よぼろ)を率(ひき)ゐて、有間皇子を市経(いちふ)の家に囲(かく)ましめ、便(すなは)ち駅使(はゆま)を遣して、天皇(すめらみこと、斉明天皇)の所(みもと)に奏(まを)す。
有間皇子の謀反事件の黒幕は中大兄(なかのおおえ)であり、蘇我赤兄(そがのあかえ)はその意を受けて、有間皇子に謀反を勧めた。鮪(しび)が、赤兄の命によって、有間の捕縛に向かったのなら、鮪はあきらかに中大兄側の人物であったことになる。
椎子(しい)もまた、古人大兄の謀反事件の加担者であるにもかかわらず、何の処断も受けていない。椎子と鮪が同一人物であるなら、もともと椎子は、赤兄が有間皇子に近づいたのと同じく、中大兄の内意を受けて、古人大兄に近づいた可能性もある。むしろ、そう考えた方が理解しやすい。
ならば、経歴のよくわからない蘇我田口臣川堀(そがのたぐちのおみかわほり)も含めて、ここに名が示されている五名は、いずれも古人大兄を陥れる目的で古人に接近した人物であった可能性が高い。それゆえ、中大兄に重用されることになるのだろう。
垂(しだる)は、一般には、自首したためにその罪が免(ゆる)されたと説明されている。新日本古典文学全集『日本書紀③』頭注は、「名例律(みょうれいりつ)」佚文の「凡犯罪未発、而自首者、原其罪(凡そ罪を犯して未(いま)だ発(あらは)れずして、自首せる者は、其の罪を原(ゆる)せ)」(自首条)を引用した上で、「吉備笠臣垂は、自首により罪を逃れ、後世に密告の功によって功田を賜る」と記す。
この注では、垂が「後世」に功田を賜ったとする。だが、先にも見た『続日本紀』天平宝字元年(七五七)十二月九日条の記事は、大化以降に賜与された功田(こうでん)の等第(等級)を定めた記事であり、垂への功田施与は、事件から間もない頃のことと見てよいように思う。そこにはまた、「大錦下笠臣志太留」ともあった。大錦下(従四位相当)は、天智天皇三年(六六三)以降に制定された冠位だが、それ以前にも何らかの冠位が与えられていた可能性は高い。垂への報賞と見てよいから、その自首自体が、古人大兄の謀反を捏造(ねつぞう)するための策略であったと見ることもできる。謀反の謀議が現実にあったのなら、自首によって、罪を免(ゆる)されるのはともかくも、冠位を与えられたり、功田を賜ることなど、本来はありえない。
それゆえ、すでに述べたように、垂を含む五人は、中大兄の意を受けて、古人大兄を抹殺する手引きをしたと考えるのが妥当だろう。
垂およびその子孫は、その密告の報賞である功田をどのような思いで受け継いで来たのかが問題となる。もとよりそれはわからない。もっとも、体制の構築に協力したという意味では、垂の場合、密告という行為に、それほどの後ろめたさを感じていなかったのかもしれない。それは、垂以外の四人についても同じだろう。負性を負い続けたとする理解は、案外と近代的な、あるいはまた情緒的な見方であるのかもしれない。それゆえ、垂が「後ろ指をさされる人生」を送ったかどうかは、不明とするほかはない。