以前のブログで、長屋王事件の密告者について記した。「後ろ指をさされる人生」とは、密告者のその後の人生の喩(たと)えなのだが、すべての密告者がそのような人生を送ったのかどうかはわからない。何より、残された資料(史料)がきわめて乏しく、その後の人生をたどることは、なかなか難しいからである。
ここでは、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)抹殺事件の密告者吉備笠臣垂(きびのかさのおみしだる)について、述べてみたい。長くなるので、二回に分ける。
古人大兄は、舒明(じょめい)天皇の皇子で、その母は蘇我馬子の娘法提郎女(ほてのいらつめ)。舒明天皇の擁立を背後で画策したのは蘇我氏であったから、蘇我氏腹の古人大兄は、そのもっとも有力な皇位継承資格者の一人と目されていた。
大化前代の皇位継承は兄弟相続が原則であったが、一方で大兄(おおえ)制がそれに規制を与えていた。大兄は天皇の長子を意味するが、当時は一夫多妻であり、天皇は複数の異腹(ことはら)の大兄をもつこともありえた。その場合も、それぞれの腹の長子が大兄となった。兄弟間での相続が一段落した後は、皇位は子の世代に移るが、その場合、大兄とその直系の子の系統に皇位が優先的に受け継がれるものとされた(井上光貞「古代の皇太子」『日本古代国家の研究』、岩波書店)。古人大兄もまた、そうした立場で、舒明朝のもっとも有力な皇位継承者の一人と見なされていたことになる。
ところが、舒明天皇の崩御後、古人大兄は皇位に就かず、かわって舒明の皇后が即位する。皇極(こうぎょく)天皇である。その理由は、もう一人の有力な皇位継承資格者として、聖徳太子の長子山背大兄王(やましろのおおえのおう)がいたからである。皇后の即位は、皇位継承の争いを未然に防ぐ意味をもっていた。
皇極天皇二年(六四三)、蘇我氏は山背大兄王を害し、上宮王家(じょうぐうおうけ)は滅亡する。この時点で、古人大兄の即位は自明のものとなっていた。ところが、いわゆる大化改新(乙巳(いっし)の変)によって、蘇我氏の本宗家は滅亡する。古人大兄は、異心をもたないことを示すため、出家して吉野に隠棲する。その場所は、奈良県吉野郡大淀町比曽(ひそ)にあった比蘇寺(ひそでら、現光寺とも。現在は世尊寺と号し、境内に比蘇寺の塔の礎石などが残る)のあたりとされる。壬申の乱の前夜、大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が隠棲した吉野宮滝(みやたき)の離宮とは、場所を異にする。
大化元年(六四五)九月十二日、古人大兄の謀反が露見する。かねて謀反の計画に加わっていた吉備笠臣垂(きびのかさのおみしだる)が、中大兄皇子(なかのおおえのみこ、後の天智天皇)のもとに自首し、「吉野の古人皇子(ふるひとのみこ)、蘇我田口臣川堀(そがのたぐちのおみかはほり)等(ら)と謀反(みかどかたぶ)けむとす。臣(やつかれ、垂(しだる))其の徒(ともがら)に預(くはは)れり」と告げた。
この密告を受けて、中大兄は吉野に兵を派遣、古人大兄と子を斬刑に処した。その「妃妾(みめ)」もまた自経(自ら絞死)したという。蘇我氏の影響力を徹底的に排除しようとする陰謀の疑いの濃い事件だが、ここでも密告者の果たした役割は相当に大きい。
密告者垂(しだる)の経歴の詳細は、ほとんど知られていない。ただし、孝謙天皇の天平宝字元年(七五七)十二月九日、大化以降に賜与された功田(こうでん)の等第(等級)を定めた記事があり、そこに垂に与えられた功田についての言及がある。
大錦下(たいきんげ)笠臣志太留(しだる=垂)、吉野大兄(よしののおほえ、古人大兄)が密(ひそかこと)を告げし功田廿町。告げたる微言(しのびこと)は、尋(たづ)ぬるに露験(ろげむ)に非(あら)ず。大事(だいじ)を云ふと雖(いへど)も、理(ことわり)軽重(きやうぢう)すべし。令(りやう)に依るに中功(ちゆうこう)なり。二世に伝(つた)ふべし(『続日本紀』天平宝字元年(七五七)十二月九日条)。
百年以上も後の記事である。これによれば、垂(「志太留」)は、密告の後、大錦下(たいきんげ)の位を与えられ、功田二十町を与えられていたことがわかる。大錦下は天智天皇三年(六六四)制定の冠位の第九等、後の従四位に相当するから、かなりの高位である。功田は大功以外は、世襲の限度を設けていたので、それまで未定であった功田の等第(等級)をここで定めた。事件からすでに百年以上が経過し、中功と定められたので、その世襲は二世(孫)までとされた。隠れた陰謀を暴(あば)き立てたのではなく、自分も関与していた計画を告げたに過ぎないというのが、中功と評価された理由であるという。
もっとも、謀反などの企てが実際にあった場合、それを知りながら官署に告げないことは、重罪にあたるとされた。「闘訟律(とうしょうりつ)」佚文には、「凡知謀反及大逆者、密告随近官司。不告者絞(凡そ謀反また大逆を知れる者は、随近の官司に密(ひそ)かに告げよ。告げざる者は絞)」(密告謀反大逆条)とある。後段の規定によれば、絞首の処分を受けることになる。謀反や大逆の場合、当事者の罪は斬首だから、同じ死罪でもやや軽い処分になる(なお、大逆の場合は、実行した場合のみ斬首、計画段階では絞首とされた。「名例律(みょうれいりつ)」八虐(はちぎゃく)条に規定がある)。斬首が絞首より重い刑なのは、首と胴とを切り離すからだろう。殺されるのだからどちらも同じとはいえ、斬首の場合は、それによって死後の復活を完全に断つ意味がある。
この「闘訟律」の規定は、先のブログで引用した、「誣告(ぶこく)」の罪の規定と対(つい)をなしている。いたずらな告発は、とりわけ謀反や大逆の場合には、引き起こされる結果が重大であるだけに、それを牽制するねらいがあったものと思われる。なお、謀反と大逆の違いだが、「名例律」八虐条には、「謀反」は、「謀危国家(国家(みかど=天皇)を危うくせんを謀(はか)る)」とあり、「君主に対する殺人予備罪」であるとする(日本思想大系『律令』頭注)。一方の「大逆」は、御陵・皇居の損壊を謀る罪をいう(日本思想大系『律令』頭注)。ただし、古人大兄の事件の際に、こうした律の規定に示されるような法体系は未整備だったと思われるので、以上は参考に過ぎない。(以下②に続く)