PRIME VIDEOで、「コリーニ事件」を見た。2019年ドイツ制作の映画で、法廷ドラマの範疇(はんちゅう)に入る。濃密かつ緊張感に満ちた展開が続くので、2時間のドラマを一気に見てしまった。原作(日本語訳)は、フェルディナント・フォン・シーラッハ『コリーニ事件』(創元推理文庫、酒寄進一訳)である。
ドイツ経済界の重鎮、マイヤー機械工業の元経営者であるハンス・マイヤーが、イタリア人、ファブリツィオ・コリーニによって惨殺された事件の公判廷で、その背後に秘められた驚くべき真相が、弁護士カスパー・ライネンの手腕によって明らかにされる。被害者のマイヤーは85歳、犯人のコリーニは67歳。事件は2001年に起こったとされる。
ライネンは、弁護士登録を済ませたばかりの新米弁護士である。当初、事件について何も知らないまま、コリーニの国選弁護人を引き受ける。その後、被害者のマイヤーが、ライネンの恩人ともいうべき存在であることを知る。ジャン=バプティスト・マイヤーが正式な名であることを知らず、通称として用いていたハンス・マイヤーの名でしか認識していなかったためである。マイヤーは、息子夫婦と孫フィリップを交通事故で失っており、いまはもう一人の孫、フィリップの姉のヨハナしか、身内はいない。
ライネンは、フィリップの親友だったが、フィリップ亡き後、ヨハナがイギリスに渡って結婚するまで、親密な関係をもった。ヨハナは、いまは夫とは別居状態であり、ドイツにもしばしば戻っている。
ライネンは、被害者が恩人にあたる人物であることを知り、一度は弁護人となることを辞退しようとする。だが、弁護士としての職責から、引き受けることにする。ヨハナにも、その旨を伝える。
なぜ被害者の近しい関係者が、加害者の弁護人になることができるのか。そこが腑(ふ)に落ちなかったので、原作を買い求めて、読んでみた。
ドイツの刑事裁判では、どうやら依頼人(この場合、加害者のコリーニ)の了解が得られれば、ライネンのような立場であっても、弁護人になれるということらしい。
そのようなことで原作を読んだのだが、映画には大きな改変がいくつもあることが、そこからわかった。
映画では、主人公のライネンは、トルコ系という設定になっている。だが、原作にはそうした記述は見られない。ライネンとその父の微妙な葛藤も、原作にはない。
ドイツには、公訴参加制度があり、被害者側も審理に参加できるらしい。その公訴代理人(ヨハナの依頼によるヨハナの代理人)となるリヒャルト・マッティンガーの役割が、大きく変えられている。映画では、どちらかといえば悪役に近いが、原作では必ずしもそのようには描かれない。映画の筋立ては、ずいぶん無理があるように思う(後述する)。
コリーニの犯行動機は、コリーニ本人が固く口を閉ざしているため、まったく不明のままである。コリーニは、ドイツに渡ってから、ダイムラー社で工員として30年以上真面目に働き、前科もなく、退職後も模範的な市民として生きてきた。それゆえ、マイヤーを惨殺した理由は、当初から大きな謎とされた。
ライネンは、ある予感から、ルートヴィヒスブルクのナチ犯罪訴追センターの資料を管理する連邦文書館分館を訪れ、そこに保存された資料から、驚くべき事実を発見する。映画では、ヒッピー風の若い女学生が、ライネンの調査に協力することになっているが、原作にはそうした女学生は登場しない。
コリーニの父は、パルチザンの一人として、仲間とともに、ナチによって非道な方法で処刑されていた。ジェノヴァで、ドイツの兵士二人がパルチザンのテロ攻撃で死ぬ。ドイツの兵士が殺された場合、一人につき十人を報復として処刑することになっており、収容所に捕らえられていたパルチザン二十名が、恣意的に選び出されて処刑される。その二十名は、テロ攻撃とはまったくの無関係である。パルチザンであったかどうかもわからない(ふつうの市民であったのかもしれない)。その中に、コリーニの父がいた。その報復の処刑を指揮したのが、親衛隊のジェノヴァ司令部の統括官、ハンス・マイヤーだった。
映画では、マイヤーは、少年コリーニに、父が処刑されるところを無理やり見せようとする。マイヤーの残忍さが際立つ場面だが、原作にはそうした描写はない。父が殺されたことを、叔父に聞かされるだけである。
一方、原作には、ナチの兵士によって、コリーニの15歳の姉が、コリーニの目の前で殺される場面がある。姉は、兵士によって強姦された後、首を撃たれて殺される。その場面は映画にはないから、処刑の場でのマイヤーの残忍さを強調することで、その差し引きを計ろうとしたのだろう。だが、そこには無理もある。その残忍さは、後のマイヤーの生き方とは、整合しないからである。
いずれにしても、ナチの非道な戦争犯罪が、マイヤー惨殺の動機であることが、ライネンによって、公判廷で明らかにされたことになる。
だが、問題は、ここから先にある。終戦後、なぜ50年以上も経過してから、コリーニは、こうした私的な復讐方法で、マイヤーを殺さねばならなかったのか。
公判廷でも、このことが問われる。ライネンは、それに対して、驚くべき理由を解き明かす。
コリーニは、1968年、戦争犯罪者として、マイヤーを告発している。マイヤーは検察当局の取り調べを受けたものの、翌年捜査は突然打ち切られる。打ち切りの根拠となったのが、1968年10月1日に発布された「秩序違反法に関する施行法」、いわゆるドレーアー法である。そもそも、ナチによる戦争犯罪としての殺人行為を、首謀者による「謀殺」と、首謀者の命を受けて実行した実行者による「故殺」とに分け、「謀殺」には時効はないが、「故殺」にはあるとされた。時効成立までの期間は、ドレーアー法によって15年と定められた。マイヤーは「謀殺」犯ではなく、「故殺」犯とされ、それゆえ1969年の時点では、すでに時効が成立しているものとされた。捜査打ち切りの理由は、そこにある。
コリーニは、公的な処罰が果たされないことを知ったが、すぐには私的な復讐を実行しなかった。その告白によれば、孤児となった自分を育ててくれた叔母の存命中は、叔母を悲しませたくなかったからだという。叔母が死に、すべての繋累(けいるい)がいなくなったところで、マイヤーを殺すことを決断したのだという。
コリーニ事件は、若干のモデルはいたようだが、多くは創作とみてよい。その執筆の意図は、ドレーアー法によって象徴される、戦後のドイツの司法の闇、〝法律の落とし穴〟(原作文庫版解説)を暴(あば)き出すところにあったらしい。
以下、文庫版の「訳者あとがき」によるが、ドレーアー法の成立によって、実際にも、多くのナチ犯罪者の犯罪が時効になったという。そこには大量虐殺の実行者も含まれるという。
法案の起草者エドゥアルト・ドレーアーは、もともとナチ党員であり、ナチ体制下で検察官として活動した人物である。非道なことも行ったらしい。戦後、西ドイツ法務省に入省、1969年に退官するまで、ドイツ刑法の改正に大きくかかわったとされる。ドレーアー法の起草は、その最後の仕事であるという。映画では、公訴代理人を務めたリヒャルト・マッティンガーが、ドレーアーの起草協力者とされている。これは、原作の改変ではなく、むしろ改悪だろう。
ドレーアー法が、何の疑問も抱かれないまま、連邦議会で承認されたのもおかしなことだが、その波及効果がどこ(ナチ犯罪者の救済)に及ぶかが、簡単にはわからない仕掛けであることが、その理由であったらしい。そこからも、ドレーアーがなかなかの策士であることがわかる。
不思議なのは、なぜ、元ナチ党員の検察官が、戦後、法務省で辣腕(らつわん)を振るうことができたのかである。
さらに注意すべきは、ドレーアー法の施行が1968年であることである。
日本も含めて、大学闘争が世界的な規模で生じたのが、この年である。それを忘れてはならない。
日本の大学闘争、とくに全共闘運動は、いまは多くの誤解に曝(さら)されているように思われる。セクトの内ゲバ、あるいは大学闘争が潰(つい)えた後の、過激派による暴力的活動が、誤った印象を与えるのだろう。何より、共産主義革命、社会主義革命を目指す闘いだとの誤解が、その評価をいまも歪(ゆが)めている。
むろん、そうした革命を目指す勢力が多く混在していたことは否定できない。だが、大学闘争、全共闘運動が力を持ち得た理由は、それが旧世代の、さらにいえば旧世代が作り上げた非合理かつ抑圧的な体制を批判するための、いわば倫理を問い掛ける闘いだったからである。だからこそ、大学闘争は広範な支持を得たのだと思う。
大学闘争の標的となった、旧世代の作り上げた体制は、あきらかに戦前のそれを引きずっている。戦後の一時期、いわゆる戦後民主主義の勃興期には、影を潜めていた連中(公職追放の者も含め)がいつのまにか復権し、再び力を行使し始めるのが、この時期である。
大学闘争は、それへの抗(あらが)いの意味をもつ、それゆえに倫理を問う正当な闘いだった。それが、あっけなく潰え去るのは、いかに旧世代の力が強かったのかを示している。
日本の場合、「一億総懺悔(いちおくそうざんげ)」などと称して、個々の戦争責任を問うことに、どこか及び腰になりがちな国民性も、戦争責任者の罪をたやすく許す原因でもあった。ドキュメンタリー映画「ゆきゆきて神軍」の主人公、奥崎健三のような人物は(個人の戦争犯罪を、個人の立場で(私的な立場で)、ある場合には暴力を用いて追及し続けた)、例外中の例外というべきなのかもしれない。
それゆえ、ドレーアー法の施行が1968年であるのは、日本とドイツの違いはあっても、やはり旧世代の復権をはかるためであるように思われる。ドイツにおいても、学生を中心とする反体制運動が頂点に達したのが、この年だからである。ドレーアーがこの法を起草しようとする裏には、それゆえの危機感があったに違いない。むろん、体制側の危機感である。
「コリーニ事件」の原作を執筆したフェルディナント・フォン・シーラッハは、1964年の生まれで、実際にも刑事事件専門の敏腕弁護士であるという。興味深いのは、その祖父バルドゥール・フォン・シーラッハが、ナチ党全国青少年最高指導者であったことで、その祖父は、戦後の一時期、戦争犯罪者として服役している。それゆえ、フェルディナントは、祖父に代表される旧世代が復権する現実、ドレーアー法のような、狡猾(こうかつ)に用意された戦後ドイツの司法の闇の部分を、この作品によって白日のもとに曝(さら)そうとしたのではあるまいか。
戦争犯罪といかに向き合うかは、旧世代のありかたを問うことでもある。この「コリーニ事件」は、その課題を私たちに突きつける意味をもつ作といえるのではないか。
フェルディナントは、大学闘争を経験した世代よりも、ずっと若い。それにもかかわらず、彼がこのような本を著したのは、旧世代の戦争犯罪への批判意識を、彼自身がつよく抱いているからだろう。身近に戦争犯罪者たる祖父がいたことも、そうした意識をもたらす要因だったに違いないが、旧世代の戦争犯罪者を赦免するに等しいドレーアー法のような法が、何の疑問も抱かれることなく、連邦議会で承認されてしまったことへの、法律家としての危機意識が、この本の根底にあるのだろう。
大量虐殺の実行者ではあっても、「故殺」者としての時効が成立すれば、その責任を問うことはもはやできない。「一事不再理」というのは、法律家にとっては、絶対的な真理のようだが、それではすまない現実があることを、どこかで考えないといけないようにも思う。
文庫版の「訳者あとがき」によれば、本書の出版が契機となって、ドイツ連邦法務省は、ナチの過去再検討委員会を設置したという。文庫本の帯の「この小説が政治を動かした」とある惹句は、それを指すのだろうが、その後、その委員会がどのような成果を上げたのかはわからない。