先週の「チコちゃんに叱られる」の放送内容が、ネット上で、批判を浴びているという。
マナー講師とされる人物の、番組の女性スタッフへの指導が、あまりにも高飛車で、ほとんど「いじめ」に近いとする批判である。
ここで述べるのは、その講師の指導ぶりについてではない。スタッフとの最初のやりとりで、いたく気になるところがあった。それゆえ、以下、それを話題にしてみたい。
マナー講師は、女性スタッフに「下を向くな」と叱りつけ、テロップにも「頭を下げずに(相手の)目を見ろ」と出ていた。これがコミュニケーションの第一歩だという。だが、それは、本当だろうか。
「相手の目を見て話せ」という教えは、これまでも、時折耳にすることがあった。だが、これは不自然だと思う。私の古典の知識から考えてもおかしい。
目は、感覚器官ではあるが、古代の人たちは、そこに魂の霊威の発動を感じ取った。魂の霊威が、目を通じて現れ出るといってもよい。外部に向かって、霊威が発動することになる。
「目力」という言葉がある。新しい言葉のようだが、便利なのでここでも使う。電車の中などで、他人の視線を、背後にそれとなく感じることがある。その視線も「目力」の現れだろう。
北杜夫だったと思うが、「美人薄命」の意味について、美人は絶えず他人の視線にさらされているから、その「目力」の集積によって、命が短くなるのだと述べている。名画もまた、多くの人の目にさらされているから、劣化が進行するはずだとも述べている。書名が思い出せないが、『どくとるマンボウ青春記』だったかもしれない。
目と目を見合わすことは、それゆえ、その「目力」を交わすことでもある。そこでは、魂の優劣が問われるから、一種の戦いが生ずることになる。大相撲の仕切りのにらみ合いは、まさにそうした戦いにほかならない。「にらめっこ」は、いまでは「笑うと負けよ」だが、本来は、仕切りの「にらみ合い」と同じく、目をそらした方が負けになった。
目が魂の霊威の発動器官であるなら、相手の視線に接することで、その霊威の恩恵に与(あずか)ることもできた。「お目に掛かる」「目を掛けていただく」は、それを表す。
男女の場合は、さらに複雑である。「お見合い」は、互いに目を見合わせるのが本来であり、その根本には、戦いと同様、魂の優劣を競い合う意味があった。これは、歌垣の場などで、男女が歌の優劣を競い合うのと同様である。恋愛は男女の戦いだという言い方を、折口信夫がどこかでしていたように思うが、これもそれにあてはまる。
男女の関係が親密なものになると、目はそれぞれの魂の交流の器官になる。目を通じて、愛を交わし合った。離れて逢えない恋人同士が、「君(妹)が目を欲(ほ)り(「あなたに逢いたい」の意だが、それを「あなたの目が欲しい」と表現する)」などと歌うのも、まずは互いの目が意識されていたことを示す。
このように見て来ると、相手の目を見ることが、いかに特別なことであるかがわかる。母親が子どもを叱る際などに、「ちゃんと目を見なさい」というのは、そこに互いの魂の力の発動を意識するからである。悪いことをして目をそらすのは、にらみ合いで目をそらすのと同様である。
ならば、日常のコミュニケーションの場で「相手の目を見て話せ」というのは、やはりおかしいことになる。相手の目を見るのは、特別な場合に限られるからである。
それゆえ、なぜそれがマナーとされるのか、私にはさっぱりわからない。「目を見ろ」と言われると、相手の「目力」を意識して、むしろつよい緊張を覚える。欧米では、それがマナーだというのだが、事実かどうかたしかめたことがない。もしそうなら、右に記したような、目に現れる霊威は、どう意識されているのだろう。
最後に一つだけ。若い頃、ずいぶんと狂言の稽古に通った。そこでは、相手と向きあう際には、相手の目を見るのではなく、胸を見ろと教えられた。これも、右に記したことの裏づけになるように思う。他の舞台演劇ではどうなのか。それを知りたく思う。
マナーと称するものには、この場合に限らず、いい加減なものが多い。「チコちゃんに叱られる」で、番組の女性スタッフが泣き出したというのは、最初に余計な緊張を強いられたからだろう。そんな緊張を強いるようなものは、マナーでも何でもない。
*ヤクザなどが、相手に因縁をつける際の常套句「ガンを付ける」のガンは眼、つまり目だろう。ここでも、相手の目を見ることが、一種の挑発行為と見なされている。相手の目を見ることが、異常な緊張を生む、場合によっては、「にらみ合い」と同じく、戦いにつながる行為であることがここからもわかる。(5月25日追記)