①の続きになる。
ここからさらに暗い話になる。①の最後で述べた事情ともかかわるところがあるのだが、国文学の世界そのものに、近年、閉塞感が顕著になりつつあるように思われる。
その一方、これはきちんとした検証を経たわけではなく、漠然とした印象に過ぎないのだが、国文学の研究そのものは、表面的には大いに活況を呈しているようにも見える。発表される論文の数、刊行される研究書の数は、近年、ほとんど量産というに等しい数になっているのではないかと思う。こうした状況、とくに研究書が陸続として刊行されるような状況は、私どもの学生時代には、まったく想像もできないことだった。ならば、まさしく文運隆昌と呼ぶべき現実ではあるのだが、内情はしかし、相当に違っているように思われる。
以下、諸刃(もろは)の剣(つるぎ)となって、我が身に返ってくることを承知の上でいえば、そうやって量産される論文や研究書の質は、必ずしもそれに見合うものにはなってはいない。それどころか、その低下はかなり著しいように思われる。
論文や研究書が量産される背景には、極端な業績主義の風潮、その蔓延がある。博士の学位を取得したら、ただちにその成果を刊行するのが、いまや約束のようにもなっている。質の低下は、むしろ必然であるともいえる。
そうした量産された論文や研究書は、研究者集団、つまり学界内部では一応の流通はするものの、それらがすべてきちんと読まれているとはとても思われない(「論文の読者は二人しかいない。書いた本人と校正者だけ」という揶揄の名言もある)。ましてや、研究者集団の外側、つまり一般の読者の中に読み手を得ることなど、まずありえないというのが、現在の状況であろう。近年、国文学系の雑誌(『文学』『解釈と鑑賞』『国文学』)が相次いで廃刊したことは、辛うじてその外側(一般の読者)とつながっていたその道が、完全に絶たれてしまったことを意味している。まさに深刻と呼ぶべき状況である。
さらにもう一つ大きな問題がある。これは、論文、研究書の量産、その質の低下と、どこかでかかわる問題かもしれないが、研究者集団の内部で、学問的な論争がまったく絶えてしまったことである。それぞれの研究者は、自分の世界に閉じこもり、あるいはそこに自足し、他の研究者と論争することが、すっかりなくなってしまった。
私どもが学生の頃は、いろいろなところで論争の場面が見られた。私なども、学会発表などでは容赦ない批判を浴びせられたりもしたが、それへの反駁(はんばく)を試みるなどして、少なくともいまの学会の遠慮がちの、相手を傷つけまいとするような質疑応答とは異なる、学問的な充足感を覚えたものである。それが研究の進歩につながっていた。
右のことは、学会発表の場に限らない。私の研究領域である上代文学の世界を例にすると、かつて「柿本人麻呂歌集」の評価をめぐって、百家争鳴、あるいは侃々諤々(かんかんがくがく)の議論がなされていたことがあった。だが、そうした議論など、いまやすっかり忘れ去られてしまったかのようである。
お名前を出して恐縮なのだが、大昔、東京大学の中世文学研究会で、東京大学に着任間もない久保田淳(くぼた・じゅん)先生が、『松浦宮物語(まつらのみやものがたり)』についての発表をなさったことがある。萩谷朴(はぎたに・ぼく)先生が立ち上がり、それへの辛辣(しんらつ)な批判をなさったのだが、久保田先生は理路整然と、それへの見事な反駁をなさった。そのことを、いまもあざやかに思い起こす。
近年、論争が起こらず、それぞれの研究者が各々の研究に自足するような傾向が顕著になったのは、おそらくいまの人びと、とりわけ若い世代の人びとが、他と争うのを好まず、あるいは争うことによって、自らが傷つくことを極端に厭うような心性をもつようになったためではないかと思っている。これでは、研究はまったく進展しない。
久保田先生のお名前を出したついでに、「ついでに」というのはまことに失礼な申しようになるが、もう一人の恩師である秋山虔(あきやま・けん)先生の思い出も述べておきたい。
私どもが本郷に進学した当時は、学生側からいえば大学闘争、大学側からいえば大学紛争の直後であり、研究室全体がまことに殺伐とした雰囲気に包まれていた。そうした中、先生方の学生に対する姿勢はまことに厳しいものがあった。たとえば、大学院の演習の場などでは、秋山先生は受講生をほとんど対等の研究者としてお扱いになり、その発表に対しては容赦ない批判を加えられた。修士課程の学生からすると、幕下以下の力士が天下の横綱と相撲を取るようなもので、実に恐ろしい試錬の場だった。先生からすれば、我々を批判するなら、対等の場で闘ってみろ、ということだったのかもしれない。いまならパワハラと言われかねないのだが、先生の晩年、お宅にお邪魔した折など、「昔こういうことがありまして」と申し上げたら、「そんなひどいこと言いましたっけ」などと仰(おっしゃ)られて、いまや昔語りに過ぎないのだが、私の場合、そうした経験が研究者としての自己を確立していくための重要な契機になったことだけは間違いない。ついでながら、学会への論文投稿なども、当時は、学生がみな勝手にやっていた。教員の事前の指導など、誰もまったく受けなかった。学会誌に掲載された後で先生にお目に掛けるのがふつうのことだった。
いまや大学は、――初等教育の段階からずっと続けて、徹底した管理教育の場になり下がってしまった。詳細なシラバス作成の要求、授業評価等の義務化、学生の出席管理の厳格化等々。およそ本来の大学教育にはなじまない内容だが、これが管理教育の実態にほかならない。自らが進んで何かに立ち向かって行くような意識は、こうしたところからは生まれにくい。自らが傷つくことをひたすら恐れるような心性が現れるようになったこととも、どこかで連動しているに違いない。論争をできるかぎり避けたいとする思いもまた、その所産であろう。
さらに申しておくと、右に述べた学会などでの学問的な批判は、人格に対する攻撃とは一切結びつかない。①で触れた前田雅之氏の著書では、三谷邦明(みたに・くにあき)氏の、舌鋒鋭い批判を懐かしく想起しつつ、「(三谷の)批判はあくまでも相手の研究方法に限定され、相手の人格は三谷には関心の外であったから、三谷の批判は側で見ていて、恐ろしくはあったものの、相手に対する憎悪をおのずと芽生えさせてしまう嫌な感じは一切生まれなかった」と述べている。これは、当時の物語研究会の議論についての回想だが、当時は物語研究会のみならず、他の学会においてもほぼ同様な状況であったことを、ここでも強調しておきたい。
ここで、人文学の危機、就中(なかんずく)、国文学の危機についてどう対処するかに触れなければならないのだが、ほとんどなすすべがないというのが、正直な答えになる。私の狂言の師である山本東次郎家の家訓「守って滅びよ」に倣(なら)うのも、一つの選択かもしれない。そうでないとするなら、人文学の意義を繰り返し強調し、国文学の発信力を高める以外に方法はない、ということになろうか。
最後に、海外の大学の実情について一言だけ触れておく。ヨーロッパは階級社会の伝統が残されているためか、とくにフランスの高等教育の場、グランゼコールのようなところでは、人文学の危機といった深刻な状況は、さほど見られないようである。これも以前文学部長をお勤めになった中地義和(なかじ・よしかず)氏(仏文学)にうかがったところでは、フランスのそうした高等教育の場では、学生による授業評価などは、まったく考えられないとのことであった。
「稽古照今」を総テーマとするシンポジウムではあったが、すべて後ろ向きの暗い話になってしまった。妄言多謝。