昨日、たまたまテレビをつけたら、「没後一年 田村正和と推理作家の巨匠たち」という企画で、松本清張原作のテレビドラマを放映していた。『砂の器』をやっていたのだが、その二時間ドラマをとうとう最後まで見てしまった。
大筋は原作と変わらないものの、省略箇所も多く、部分的な改変もあったりする。何より、1974年(昭和49年)の事件とされているのは、どうやら長嶋茂雄の巨人軍引退と重ねる意図があるかららしい。原作は、1960~61年の「讀賣新聞」の連載で、1950年代の社会状況を色濃く反映しているから、時間をずらすのは、相当に無理がある。テレビドラマの制作は、1977年とあった。
『砂の器』というと、1974年に制作された、野村芳太郎監督の映画がよく知られているが、昨日のテレビドラマにも、その影響がかなり及んでいるらしい(家内の感想)。
ところが、私は、世間的には「傑作」とされる、その映画を見ていない。その理由は簡単で、原作そのものをあまり評価できないからである。
松本清張は、高校生の頃からずいぶんと読んだ。むしろ好きな作家といってもよい。『砂の器』は別としても、その小説を原作とした映画もいろいろと見た。『影の車』『内海の輪』など、岩下志麻主演の作は、かなり熱心に見た。
松本清張は、しばしば社会派推理作家と呼ばれる。社会派というレッテルは、本格推理の作家ではないことを意味する。海外でいえば、アガサ・クリスティ、日本でいえば、横溝正史のような作家ではないことになる。
だから、おしなべて清張の長編推理には、弱点が見られる。社会派的なテーマがつねに先行する。『砂の器』は、その典型であろう。
被害者三木の記憶力がどれほど図抜けていても、犯人の和賀が人違いだといえば、それですむ話である。和賀は戸籍まで完璧に作り上げているのだから、あえて三木を殺す必然性などない。人違いだと主張すれば、三木としては引き下がるしかないだろう。この発端のお粗末さが、『砂の器』を評価できない理由である。
今回、パラパラと読み返したのだが、今西主任が、方言について、国立国語研究所に尋ねに行くあたりは、いかにも清張らしいこだわりが見られて、なかなかおもしろかった。
最初に刊行されたカッパブックス版で読み返したのだが、一つ誤りを発見した。方言研究者「都竹通年雄」の名のルビが、「とだけ・つねお」になっている。正しくは「つづく・つねお」である。手許の本は、昭和53年(1978年)刊行の132刷だが、訂正はなされていない。どういうわけだろう。
出雲は何度か訪ねたことがあり、亀嵩駅(かめだけえき)にも立ち寄ったことがある。木次線(きすきせん)の閑散とした駅である。『砂の器』の舞台はここかと、ちょっぴり感動したのを思い出す。いまは駅舎の一部を改装して、そこで出雲蕎麦が食べられる。なかなかの味で、これを目当てに来る観光客もいるという。
案外と知る人が少ないが、清張は芥川賞作家である。直木賞作家ではない。1953年(昭和28年)、「或る「小倉日記」伝」で受賞した。その時の選考委員坂口安吾の選後評が実に興味深い。
「或る小倉日記伝」は、これまた文意甚だ老練、また正確で、静かでもある。一見平板のごとくでありながら造型力逞しく底に奔放達意の自在さを秘めた文章力であって、小倉日記の追跡だからこのように静寂で感傷的だけれども、この文章は実は殺人犯人をも追跡しうる自在な力があり、その時はまたこれと趣きが変りながらも同じように達意巧者に行き届いた仕上げのできる作者であると思った。(太字は多田)
清張の推理小説作家としての将来を予見した、驚くべき慧眼といえる。安吾自身もまた、『不連続殺人事件』のような作を残した本格推理小説作家でもあったから、清張の資質をいち早く見抜くこともできたのだろう。
しかし、推理小説も含めて、清張のよさは、むしろ短編にある。手許に、副題を「傑作短編集」とする新潮文庫の六冊がある。うち二冊は時代小説(『西郷札』『佐渡流人行』)、残り四冊が現代小説になる(『或る「小倉日記」伝』『黒地の絵』『張込み』『駅路』)。どれをとっても傑作ばかり(「傑作短編集」の副題は嘘ではない!)。長編に見られた弱点が、ここではまったく姿を消している。「万葉翡翠(まんようひすい)」とか「陸行水行(りくこうすいこう)」のように、古代史の豊富な知識を背景とする作もあったりする。
「小倉日記」からの連想かもしれないが、清張の文章は、どこか森鷗外を思わせるところもある。
いまの学生たちに聞くと、清張もあまり読まれてはいないらしい。社会派として主張するテーマが、いまの時代状況に合わなくなっているためなのかもしれない。もっとも、「ある小官僚の抹殺」(新潮文庫『駅路』所収)に描かれたような状況は、いまも時折見られるから、そのテーマはまだ生きているともいえる。組織の上部が疑獄事件にかかわるような場合、それを隠蔽するため、その鍵を握る実務の当事者に、上の筋からそれとなく自殺を慫慂(しょうよう)するほのめかしがあったりする。その際の、
君が善処(「善処」に傍点あり)してくれたら、上役や先輩たちはどんなに君に感謝するかわからない。みんなで協力して、奥さんや子供さんたちが立派に暮らせるよう最大限に努めるだろう。
という科白(せりふ)は、なかなかリアリティがある。「善処」とは、すごい言葉である。だから、清張はもっと読まれてよい作家だと思う。
*なお、右の小説では、その当事者の死は自殺として処理されたものの、実際には殺されたのではないかとする可能性も示唆されている。