雑感

冬来たりなば…

投稿日:2022年2月12日 更新日:

立春はとうに過ぎたが、雪が降ったりして、春の訪れはまだまだ先のようである。
そんな時、テレビで「冬来たりなば、春遠からじ」の句を耳にした。
この句には、ずいぶん以前から、どこかしっくりしない感じをもっていた。冬もそろそろ先が見えたから、春も近いだろうという意味で「春遠からじ」というならわかる。しかし、「冬来たりなば」は仮定形だから、この句の現在は秋になる。そうでなければ、冬になってすぐの頃でないとおかしい。時間の流れから考えて、ずいぶんと間の抜けた言い回しだと感じていたのである。

この句は、いまでは、ことわざに近い慣用句として使用されているらしい。『広辞苑』には、「つらい時期を乗り越えれば、よい時期は必ず来るということ」とする説明が見える。だからこそ、受験生への励ましなどに用いられるのだろう。
それはそれでわかる。だが、言葉そのものの意味は、右に記したように、ずっと釈然としないままでいた。

この出典が、英国の詩人P・B・シェリーの詩の一節であることは知っていた。しかし、きちんと調べることをずっと怠って来た。時間があるのを幸い、原詩にあたってみることにした。私の英語力はきわめてお粗末だから、辞書や翻訳をたよりに、何とか読んでみた。

「西風への頌歌(ODE TO THE WEST WIND)」と題する五章からなる長編詩である。1819年の作とされる。
きわめて抽象度が高く、象徴詩に近い。抒情詩などと説明されるが、それは違うと思う。
歌い手が語りかける対象は、秋とともに吹いて来る「西風」だが、ほとんど魔界の霊威の現れのようなものとして捉えられている。旧訳聖書「出エジプト記」のイメージが下敷きにあるのだろうが、大海原を二つに切り裂くように、西から渡って来る「西風」は、生命あるものを冷たい死の床に横たわらせる魔力を秘めている。天空を飛翔する不吉な死の影は、あたかも地上世界を覆いつくすかのようである。

ところが、最終章では、歌い手はその「西風」に、同化ないし一体化しようとする願望を示す。その箇所を引用する。翻訳は拙文による。

Drive my dead thoughts over the universe
Like withered leaves to quicken a new birth !
And, by the incantation of this verse,

Scatter, as from an unextinguished hearth
Ashes and sparks, my words among mankind !
Be through my lips to unawakened earth

The trumpet of a prophecy ! O, Wind,
If Winter comes, can Spring be far behind ?

わが死せる思想を、枯れ凋(しぼ)んだ木々の葉に新たな誕生を胎動させるが如く、
世界全体に及ぼすように!
そして、この詩の魔力によって、

消え去さらぬ暖炉から、灰や火の粉を散らすように、私の言葉を、人類の間に撒(ま)き広げてくれ!
私の唇を通して、まだ目覚めぬ大地に、届かせよ、

予言のトランペットよ! おお、風よ、
もし冬が来るなら、春はそんなに遠くではないはずだ。

ここには、シェリーの詩人としてのつよい思いが現れている。冬をもたらす「西風」は、同時にまた詩人の言葉を世界全体に届かせるものだとする。とはいえ、それは詩そのもののもつ魔力の発動でもある。シェリーは、波乱の人生を送ったらしいが、この時期、詩人としての停滞を意識していたのかもしれない。子どもの頃の奔放さは、「西風」を超えて、天空を飛翔しうるような力があると信ずるほどだった、とも歌われているからである。

問題は、最終行の「If Winter comes, can Spring be far behind ?」である。ここが、「冬来たりなば、春遠からじ」と訳されている。
冒頭に疑問を述べたが、詩そのものを読み進めて来ると、必ずしも誤訳といえないことだけはわかった。だが、冬の苦難の時期を乗り越えて、希望の春がやって来るとする理解は、余りにも単純すぎると思う。
「春」の息吹は、大地に生気ある色や香りを満たすが、同時にそれは「Wild Spirit」のしわざであり、その「Wild Spirit」とは、「西風」とも重なる、破壊者(destroyer)、保存者(preserver)でもあるからである。何より、「春」は、「西風」の碧空色の「妹」(azure sister)であるとされる。
「If Winter comes, can Spring be far behind ?」とは、その意味で、「西風」のもつ霊性、その魔力への懇願にほかならないともいえる。さらにいえば、そこには、魔力のもつ禍々しさに誘引されようとする心の働きすら感じ取れる。

右のような読解は、ずいぶんとあやしいものだと、自分でも思う。その最終行を「もし冬が来るなら、春はそんなに遠くではないはずだ」と訳してはみたが、これにはあまり自信はもてない。

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