今朝、テレビを見ていたら、学習障害が取り上げられていた。漢字がなかなか覚えられず、たとえば「生徒」をしばしば「生従」のように書いてしまったりする高校生が紹介されていた。学習障害には、「聞く」「話す」「読む」「計算する」などの能力を欠いたりする事例が見られるという。程度の軽重はあっても、百人に一人くらいは、これに悩む生徒がいるらしい。もともとは、脳の機能に原因があるともいう。
ここで、私の場合になるが、学習障害の範囲に含めてよいのかどうかはわからない。人の顔が覚えられないのである。調べて見ると、「相貌失認」というらしい。もっとも、そこに示されている症例ほどひどくはないから、仮にそうであったとしても、もっとも軽度の部類に属するのだろう。
ただし、困ることはいろいろある。まず、学生の顔がなかなか覚えられない。自分の指導学生であっても、しばしば顔を忘れる。これは、教師としてはほぼ失格に近い。営業職に就くことなど、まず無理だろう。政治家も不向きだろう。
相手の名前を言わないと悪いと思い、勇気を振るって「○○君」と呼んだら、見事に違っていた、などということもしばしばあった。これは、実にばつが悪い。そこで、ある時から、自分から名告るよう、学生たちに伝えたこともあった。当人を覚えていないわけではなく、顔だけを忘れているのである。
若い頃、ある学会の懇親会で、大失敗をしたことがある。椅子に据わっている某大先生が誰だかわからず、どこかで見たようなお顔だと思いつつ、会釈もしなかった。その先生が後で、「多田は、挨拶もしないで、無礼な奴だ」と仰っていたということを耳にして、冷や汗が出た。そういう苦い思い出もある。だから、懇親会などの席で、名札が用意されているとほっとする。昨今、事務負担の軽減のためと称して、名札を廃する会合が増えたが、これはとても困る。
顔を忘れる、顔が覚えられないのは、「相貌失認」とまではいかなくても、脳の認識機能に何らかの欠陥があるのだろう。
絵がうまく描けないのも、それと関連するように思う。昔から、私は美術の教科が苦手だった。絵画の鑑賞能力は十分にあると思うのだが、絵が描けない。もっと詳しくいえば、目の前のものを写し取ることができない。子どもたちは、いまでも漫画の主人公などを紙に書き写したりするが、私にはそれができない。真似して書いたところで、似ても似つかぬものになってしまう。写生ができないのだから、静物画など描けるはずもない。それで、美術の時間は実に苦痛だった。
肢体不自由の画家がいる。両手を失って、足や口で見事な絵を描く。堀江六人斬り事件で、両手を切断されたものの、後に出家して、口に挟んだ筆で素晴らしい作品(書も含めて)を残した、大石順教尼のような著名な作家もいたりする。
足や口で筆を執るためには、並外れた努力と修練とが必要であるに違いない。だが、不遜を承知でいえば、こうした肢体不自由の作家たちは、もともと絵を描く天分が具わっていたのではあるまいか。反対からいえば、両手があっても絵が描けない私などは、どれほど努力と修練を重ねたとしても、口や足で描くことは絶対にできないということでもある。
これで何が言いたいのか。絵を描く能力の根源は、手にあるのではなく、脳の認識機能にあるということである。
私の字が下手なのも、同じ理由によるのではないかと思う。画家や漫画家で字の下手な人はいない。字もまた形を真似るところから出発するから、それが不得手な私には、自己流の字を書くしかない。いまでも、ひらがなの「ろ」は、数字の「3」になってしまう。「呂」が原型だからと、お手本にならって崩してみても、やはりきちんとは書けない。私のワープロ歴は相当に長いが、そもそもは字が下手なのを恥ずかしく思う意識があったからである。
パスポートの署名欄に漢字で名前を書いた際、「字が下手で」と言ったら、都庁の係官が「他人には絶対に真似できない字だから、かえって安心ですよ」と応じてくれたのは、慰められたのか、馬鹿にされたのかわからない。だが、そのとおりであるには違いない。
顔を忘れること、絵が描けないこと、字が下手なこと、これらをすべて脳の認識機能の欠陥に結びつけるのは、脳科学の立場からみれば、胡乱な理屈になるのかもしれない。とはいえ、私の中では、これできちんと整合が取れているように思っている。
しばらくぶりで私に会う方は、失礼ながら、どうぞ先にお名告り下さい。