雑感

吉川英治『宮本武蔵』

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またしても昔話である。

大学には、一年浪人して入学した。浪人中は、駿台予備校に通っていたのだが、当時の駿台には、名物教師がたくさんいた。受験英語指導のプロ中のプロである鈴木長十師(当時、駿台予備校では、○○師と呼ぶことになっていた)がその筆頭だろうが、私の場合は、古文の桑原岩雄師が、もっとも印象に残る教師だった。
奇妙な言い方ではあるが、桑原師の講義を受けて、初めて本当の教育者に出会ったような感じを抱いた。その講義は、師の人格と見事に一体化しており、合間の雑談等々も含めて、実に含蓄に富む内容だった。学校教育の現実に幻滅して、予備校の教師になったという話もされていたように思う。

その桑原師が、浪人中、勉学に行き詰まったら、吉川英治の『宮本武蔵』を読めとしきりに薦めていた。その理由はよくわかる。幾多の苦難を乗り越えて、剣の道を究めようとする武蔵の姿勢は、当時の受験生の受験に挑む心を奮い立たせ、勇気を与えてくれたに違いないからである。

『宮本武蔵』は、中学の時に読んだ。私の通った中学(公立である)には、図書室ではなく、独立した立派な図書館があった。蔵書もなかなかのものだった。アルスの日本児童文庫とか、十字屋版の『宮沢賢治全集』などがあったのを、いまでも覚えている。『宮本武蔵』も、講談社版現代長編小説全集の吉川英治集所収の四冊本があった。これを借り出して、文字どおり読み耽った。

『宮本武蔵』は、当時、国民文学と称され、吉川英治その人もまた、国民的作家と呼ばれた。それほど国民の広範な支持を得ていた作家だった。
その状況を踏まえて、日本人の国民性の特質を見いだそうとする研究も現れた。桑原武夫を中心とする「大衆文化研究グループ」の研究である。メンバーは、梅棹忠夫・鶴見俊輔・多田道太郎など。京大の人文研グループとも言い換えられる。その成果は、後に桑原の著書『『宮本武蔵』と日本人』(講談社現代新書)としてまとめられた。その初版は、昭和39年。
日本人が基本的にもつとされる徳目の系列――修養、骨肉愛、あわれみなどを体現するフレーズを作品中から抜き出し、それへの好悪を問うことで、一般大衆の思考のありようを探ろうとする研究である。アンケート方式で大量調査を行ったようだが、興味深いのは、調査地点に農村、漁村、都会を選び、それぞれ男女に分けて、結果の分析を行っていることである。昭和30年代の社会構造のありようを前提としているから、いまならとても成り立たない調査方法だろう。
その分析によって、最右翼が農村の男、最左翼が都会の女とする結論が得られたとある。右翼、左翼は、そこに示された徳目への肯定、否定の意識のつよさをいう。右翼、左翼の用語でそれを示すあたり、時世といったものがうかがえる。

『宮本武蔵』は、現在ではほとんど読まれていない。浪人生が読んだところで、そこから勇気をもらうことなど、まずありえないに違いない。
先の桑原らの調査で、最左翼が都会の女であったというのは、いかにも象徴的である。都会の女にとっては、そうした徳目が、もはや意味を持たない時代になりつつあったということだろう。
もっとも、昭和30年代にも、識者の間には、すでに『宮本武蔵』を否定的に捉える見方もあったらしい。桑原の本の後半に収められた座談会(参加者は、桑原、鶴見、多田など)によれば、ドナルド・キーンが、こんなものは国民文学ではありえないと述べていたとのことであり、英訳本がアメリカで刊行された際にも、その評判はすこぶる悪かったという。「お通さんがあんなにほれているのに、思いをかなえてやらぬのはインヒューマンだという印象をアメリカの普通の人間には与える」とも記されている。このあたりは、いまの読者にも、違和感を覚えさせるところであるに違いない。

吉川英治その人も、もはや国民的作家の位置にはいない。数年前にも、NHKのBS時代劇で『鳴門秘帖』(山本耕史、野々すみ花、ほかが出演)が取り上げられたりしているから、一定の支持は失っていないのだろうが、青梅市の吉川英治記念館の来館者も、一時期閉鎖の噂が流れたように、ずいぶんと減少しているようである。

吉川英治に代わって国民的作家の位置に着いたのは、おそらく司馬遼太郎であろう。司馬の愛読者はいまも多くいるようだが、司馬が人気を獲得したのは、その背景に日本経済の高度成長があったからだろう。何事にも肯定的かつ楽天的なその歴史観は、そうした時代状況と見合うものといってよい。
ただし、私は司馬のそうした歴史観は嫌いである。代表作とされる『坂の上の雲』など、一時期夢中になって読んだこともあるが、いまは否定的な評価しか持てない。明治維新を肯定的に捉えることができなくなってから、司馬嫌いになったといえるかもしれない。
もっとも、司馬の作をすべて否定するわけではない。直木賞受賞作の『梟の城』など、娯楽性に特化したような作ではあるが、構想がきちんとしていて、とてもよい出来だと思う。

司馬遼太郎以後、国民的作家と呼びうるような作家は現れなくなった。いまや社会そのものが解体に瀕しており(多様化などではあるまい)、あらゆる価値観がすべて相対化されてしまった現状を見れば、そうした作家が生まれるはずもない。

いわゆる純文学(この言い方も、もはや古いが)の世界を見ても、自己の小さな世界を、あたかも感想文のように描いたものばかり。そうした先細りの果てに、文学はどうなっていくのか。

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