「ワーグナーとヒトラー」と書いたが、その大問題を正面から論じようというのではない。だから、羊頭狗肉もはなはだしい。ごくごく軽微な出来事について、感想めいたことを述べるに過ぎない。
しばらく前に、小松靖彦氏から『戦争下の文学者たち』(花鳥社)という本を頂戴した。戦時下の文学者六名が、結果として戦争に荷担せざるをえなかったその軌跡を、丹念な資料調査にもとづいて追尋した労作で、とりわけ『万葉集』の利用が取り上げられている。近代日本が国民国家として形成される際、『万葉集』が小さからぬ役割を果たしたことについて、昨今、これを批判する議論が見られるようになったが、小松氏の本にもそれと共通する視座がうかがえる。
小松氏に御礼の言葉を述べようと、その文面を考えていたら、突然、十年程前、バイロイトで見たリヒャルト・ワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の舞台が頭に浮かんだ。正確な日付を書いておくと、2010年8月5日の舞台である。バイロイトの舞台を見たのは二度目で、その前は1999年のことになる。その時は「パルジファル」で、指揮はその後まもなく急逝したジュゼッペ・シノーポリだった。
「マイスタージンガー」の演出は、当時、新進の演出家、カタリナ・ワーグナー(ヴォルフガング・ワーグナーの娘、リヒャルトの曾孫)だった。それ以前から物議を醸していた演出のようだが、これを見て私もかなり驚いた。
歌合戦の終わった最終場面では、参加者一同は、集まった群衆とともに、主人公ザックスを称えるのだが、この舞台では、ザックスとベックメッサーだけを残して、すべて姿を消してしまう。ザックスは、それでも延々とドイツ精神やらマイスター精神やらを歌い続けるのだが、その両脇から巨大な石像が現れ、ザックス自身も照明の効果によって、あたかも石像に化したかのようになる。形相も変化して、どこか人間ばなれした恐ろしさを見せる。一人残ったベックメッサーは、その姿に仰天し、姿を消してしまう。
どうやら、ザックスの主張であるドイツ精神、その無意味さを、石像化によって示そうということであるらしい。
その前には、ストルツィングとエヴァ、ダビットとレーネの幸せな(将来の)家庭像が、額縁のように迫(せ)り出て来る場面もあるので、そちらに価値を置こうとしているらしいことが、何となくわかった。
それにしても、カタリナが曾祖父の思想(理念)をここまで否定、風化させてよいものかどうか。それ以上に、このオペラでは、言葉と思想(理念)は不可分に結びついている。その絶対的な制約がある中で、それを否定する演出が可能なのかどうか、――そこに、大きな疑問を抱いた。当日の観客も同様に感じたようで、終演後、カタリナが舞台で挨拶した際には、大きなブーイングが起こった。
ザックスが朗々と歌うドイツ精神は、ヒトラーが、あるいはナチスが信奉したドイツ主義とつながる。ヒトラーがワーグナーを、とりわけ「マイスタージンガー」を愛好したことは、よく知られている。ドイツ民族の優越性の主張が現れているのがその理由だろう。ベックメッサーがなぜユダヤ系とされるのか(明確にそう指定されているわけではないが)、これにもいろいろな議論がある。
イスラエルでは、ワーグナーを取り上げることは、建国以来ずっとタブーであるらしく、以前、ダニエル・バレンボイム(ユダヤ系でイスラエル国籍ではあるが、現在のイスラエル政府の政策とは一線を画す立場を貫いている)がエルサレムで、あえてその作品を演奏しようとした際には、大きな反対があったらしい(いまもタブーなのかは未確認)。バレンボイムが、なぜここでワーグナーを演奏するのか、という理由を舞台上で述べていた場面が、テレビでの視聴だが、いまも記憶に残っている。
ヒトラー、ナチスによるワーグナー利用は事実だから、ひょっとするとカタリナの演出は、それに対する一つの意思表示の意味があったのかもしれない。ザックスが歌うドイツ精神の否定、風化はあきらかだからである。
現在のバイロイトの状況がどうなっているのか、カタリナの演出がその後、どのような展開を見せているのかは、不勉強ゆえまったくわからない。ただ、小松氏の本を読んでいたら、十年ほど前のその演出が、ふと頭に浮かんで来たので、あえてここに書くことにしたような次第である。「マイスタージンガー」の筋書をご存じでない方には、わかりにくい内容になったかと思う。乞御容赦。
*「マイスタージンガー」のDVDでは、ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス指揮の、ベルリン・ドイツオペラのものが、一般には低い評価のようだが、いちばん気に入っている。ザックスは、ヴォルフガング・ブレンデル。エヴァ・ヨハンソンのエヴァがかわいい(役名と同名)。