外国では論文を執筆する場合、明確な書式があると聞く。引用をどのようにするのか、注をどう付すのか等々が、約束事のように決まっているらしい。
私は、国文学という狭い世界しか知らないから、以下に述べることも、それに応じたものになる。それは御容赦願いたい。
国文学の世界では、実は、論文の書式は定まっていない。卒業論文など、各大学でどのように指導しているのかわからないが、ぼんやりとした決まりはあるのかもしれない。私自身の体験でいえば、誰からも教わったことはないし、教員になってからも教えた覚えはない。「雑誌論文などを見て、それを参考にしなさい」と、話したくらいである。もっとも、雑誌論文の書式もまちまちだから、かえって混乱を招いたかもしれない。
論文の書式で、問題があると感じているのは、注の付し方である。よく目にするところでは、二つの書式がある。
① 本文の注を付すべき箇所に、(注一)(注二)のように注番号を傍記し、論文末尾(人によっては、節の末尾)に、それに応じた注を順番に付すやり方。これが、もっとも多い書式である。
② 本文の注を付すべき箇所に注番号を傍記するのは①と同じだが、論文末尾の注は、引用参考文献の場合、
注一 何野垂逸、二〇一二
注二 凸山凹夫、一九九八
のように記し、さらにその後に、「引用参考文献」として、
1 凸山凹夫「○○××についての一考察」『出鱈目雑誌』第二〇号(一九九八年三月)
2 何野垂逸『何某の研究』(頓智出版)、二〇一二、△~□頁
のように、五十音順に並べ替えた一覧表を付すやり方。
凸山凹夫が、同年に複数の論を発表し、それを引用するような場合は、
注一 凸山凹夫、一九九八a
注二 凸山凹夫、一九九八b
のように記して区別する。
この書式は、言語学の論文に多く見られる。ひょっとすると、外国での一般的な書式かもしれない。国語学の論文でも時折見られるが、近年、国文学の論文でも、これを目にするようになった。
私の場合だが、実はどちらでもない。二十年ほど前までは①だったが、いまは別のやり方にしている。これを③とする。
③ 引用参考文献については、本文の注を付すべき箇所に、丸括弧に入れて表示する。引用参考文献以外の注記は、長いものは、(注一)(注二)のように注番号を付して傍記し、短いものは引用参考文献と同様、当該箇所に丸括弧に入れて注記する。論文末尾の注は、説明的な注記に限られるから、注そのものの数は少なくなる。末尾にまったく注のない論文もある。
私が、③のようなやり方を用いるようになった理由ははっきりしている。①②は、論文を読む際、大いなる不都合を覚えるからである。傍注が付されたところで、いちいち頁をめくって論文末尾を参照せざるを得ず、それがまことに煩わしい。②にいたっては言語道断というほかない。引用参考文献の場合、論文末尾の注をまずながめ、その上で後の「引用参考文献」の一覧表を確認しなければならない。二度も頁をめくることになるから、大いに手間がかかる。②が、言語学で一般的な書式だとしたら、どんな利点があるのだろうか。皆目見当がつかない。印刷の上でも余計な頁数が必要になるから、あきらかな紙の無駄である。
一度、国語学の某氏に②の利点を尋ねたことがある。その答えは、「引用参考文献」の一覧を見ることで、その論文がどのような学統に属するかがわかるから、というものだった。だが、それは、論文を読む際の手間とは引き合わない、ただの理屈としか思えない。もし、これが外国で用いられている注の書式であるなら、別の合理的な理由があるのかもしれない。もしご存じの方があれば、御教示願いたい。
私の③は、人間の目の利点を生かした方法だと思っている。論文を読む際、不要な部分は飛ばして読むことができるから、丸括弧内の引用参考文献の情報など、一瞥するだけで、読まずにすませられる。①の注だと、引用参考文献の注なのか、それ以外の注記なのか、論文末尾を見るまでわからない。それ以上に、頁をめくる間に、論文内容をたどっている意識が、中断されてしまう。③では、それが起こらない。それが③の利点である。
③に問題があるとすれば、自分の論文が引用されているかどうかを、読み手が簡単に把握できないことだろう。論文をすべて読まないかぎりわからない。だが、それは、本末転倒だと思う。②について、国語学の某氏が言ったことと重なる問題だが、どちらにしてもおかしい。
もっとも、複数執筆者の、いわゆる相乗りの論文集などの場合、あらかじめ注の書式が定められていれば、それに従うことにしている。どんな場合にも、③で押し通しているわけではない。