信濃追分の旧追分宿を出てすぐのところに、分去(わかさ)れの碑がある。中山道と北国街道の分岐点で、それが追分の地名の起源になった。そこから少し先の北側に、空き地がある。そこそこの広さはあるが、木々が周りにあって、やや暗い感じがする。ここが、かつて刑場だった場所である。庚申塔、二十三夜塔などが点々と並ぶ中に、「南無妙法蓮華経」の髭題目(ひげだいもく)の供養塔がある。それが、刑場であったことの名残になる。幡随院長兵衛と白井権八の出会いが芝居の「御存鈴ヶ森(ごぞんじすずがもり)」だが、その背景にある供養塔のようには大きくない。その奥には、シャーロック・ホームズの像があったり、隣接して某女子学園の夏季寮があったりするから、いまは刑場の記憶は消えているのかもしれない。説明板などは、当然ながら置かれていない。
この場所を意識するようになったのは、長谷川伸の『相良総三とその同士(上・下)』(中公文庫)を読んでからである。相良総三は、勤王の志を実現するため赤報隊を組織し、東山道鎮撫総督麾下(きか)の倒幕の先遣隊として、「年貢半減」などの公約を掲げて、東山道を進んだ。ところが、「年貢半減」の公約が問題視され、また独断専行の行動が度重なるところから、ついに「偽官軍(にせかんぐん)」として追捕(ついぶ)の対象とされることとなり、相良以下は捕縛され、ついに処刑された。
赤報隊北信分遣隊の桜井常五郎以下三名も、追分宿での戦闘(追分戦争)によって捕縛され、やはり処刑された。その場所が、先の刑場になる。
赤報隊を構成した中心は、いわゆる草莽(そうもう)階級だが、これを一貫して支えたのは薩摩藩である。それにもかかわらず、「偽官軍」の汚名を着せたのも、また薩摩藩だった。赤報隊の行動に、つよい危機意識を抱いたからであろう。だが、赤報隊の側からすれば、これは大きな裏切りにほかならない。独断専行の行き過ぎはあったにせよ、勤王の志、官軍先遣隊の矜持を持ち続けていたからである。
明治維新について、私はあまり肯定的な感情を抱いていない。それは、薩摩藩、長州藩のいわゆる薩長藩閥体制が、明治以降の歴史を悪い方向にねじ曲げたと認識しているからである。
沖縄、とりわけ宮古、八重山諸島に何度も足を運ぶようになってから、薩摩藩が当時の琉球王府に対して過酷な税負担(人頭税)を強いていた歴史を知って以来、薩摩藩にはよい印象を持っていない。
さらに、『ある明治人の記録』(石光真人編著、中公新書)を読むことで、ますます明治維新への否定的な思いをつよめたように思う。柴五郎(兄の四郎は、東海散士)の手記をまとめたものである。柴五郎は、維新の朝敵、会津の出身でありながら、幾多の辛苦を経た後、僥倖を得て陸軍幼年学校に入学、ついには陸軍大将にまで達した人物である。薩長藩閥体制の中で、異例の立身を遂げたともいえる。会津藩瓦解の後、藩士たちは俘虜となり、さらには転封により、下北半島の辺地に移された。酷寒の荒れ地で、飢えと寒さの中、開墾生活を強いられることになった。この手記は、公表を意図したものではなく、会津戦争の裏面史ともいうべき、苦難の生活のさまを、泉下の祖母、父母などに献ずるための「遺書」として残されたものだが、そこから浮かび上がるのは、明治維新の暗部そのものにほかならない。会津の人びとの、薩摩への敵愾心(てきがいしん)は、いまなおつよく残ると聞く。
学会で鹿児島市を訪れた際、観光バスに乗ったことがある。ガイドさんが、自慢げに話したことが、いまも忘れられない。かつての城下町の下加治屋町(したかじやまち)(現在の鹿児島市加治屋町)のごく狭い地域から、西郷隆盛、西郷従道、大久保利通、大山巌、村田新八、東郷平八郎、山本権兵衛など、多くの明治の英傑たちが輩出したことを、誇りをこめて紹介してくれたのだが、それを聞いていて、まったく違うことを思った。
こんなことは、どこの藩にもありえただろうということである。英傑と呼ばれてはいるが、この程度の人物は、どこの藩にもいたに違いないのであり、たまたま薩摩が維新の風向きをうまく利用したに過ぎない――それが、その時思ったことである。
柴五郎のような人物が会津から生まれたことを見れば、そのことはすぐにわかる。会津の人びとは、維新の中で埋もれてしまった人物の発掘・顕彰をいまも続けており、『会津人群像』(歴史春秋社)という雑誌が、すでに四十号を超えて発刊されていることに驚かされる。
勝者もいれば敗者もいる。明治維新も同じである。「偽官軍」の汚名を着せられた赤報隊の人びとなどは、勤王の志士であったはずだが、結局は敗者の側に位置づけられることになってしまった。
私が明治維新を肯定的に見ない理由として、薩長藩閥体制が明治以降の歴史をねじ曲げたことを述べた。その根っこには、維新の中心勢力に下級武士階級が多くいたことがあるように思う。なぜなら、下級武士であるがゆえに、一度手にした権力を決して手放そうとしなかったからである。その陋劣(ろうれつ)さが、その後の日本の進路を誤らせたように思う。
『相良総三とその同士』には、相良総三の孫にあたる木村亀太郎が、祖父の雪冤(せつえん)を果たすために、要路の大官、つまり維新の英傑たち、就中、薩摩出身者に、当時の事情を尋ねに行く場面がある。だが、案外というべきか、当然というべきか、彼らは亀太郎に対して冷淡な態度しか見せない。自分に不利益なことは話さないということだろう。唯一、貧しい身なりの亀太郎に誠実な態度で接したのが渋沢栄一であることは、やはり注意されていい。もっとも、渋沢は旧幕臣で、薩摩出身者ではないが、それにしても渋沢の人物の大きさがよく伝わってくる。
追分宿の刑場から、話がずいぶんと拡大してしまった。最後に余計なことを一言。『ある明治人の記録』をまとめた石光真人は、石光真清の子である。石光真清は肥後出身の軍人で、神風連の乱や西南戦争などを経験し、後に諜報活動を通じてロシア情勢を探ったりもしたが、概して不遇であったらしい。ところが、柴五郎とはどこか肝胆相照らすところがあったらしく、それが『ある明治人の記録』を、真人がまとめる契機になったという。石光真清にも驚くべき手記の四部作がある。『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』(いずれも中公文庫)である。
ここまで挙げた本は、『会津人群像』を別にすれば、すべて中公文庫、中公新書である。中央公論社がまだ元気であったころの出版物である。読売新聞の傘下に入ったいまとなっては、こうした本などとても出せないだろう。出版社の良心といったものを、これらの本につよく感ずる。