信濃追分、旧追分宿のはずれに、気になる石碑がある。桝形(ますがた)の茶屋のあたりから、国道18号線(旧中山道)を横断し、やや道を下る。物置小屋らしき建物の裏に、小さな石の祠(ほこら)と並んで、「丹山大明神」と刻まれた石碑が建っている。高さは1.5メートルまではいかないだろう。
「丹山大明神」の神名は、これまで耳にしたことがない。それで、どんな神様かと思って調べてみた。簡単にわかるだろうと思ったのだが、どこにも出てこない。辞典類をあれこれ見てもわからない。そこで、追分宿郷土館に電話で尋ねてみた。浅間神社の裏手にある町立の郷土資料館である。
数日後、学芸員の方から電話があった。やはり、わからないとのことだった。郷土史家にも尋ねて下さったようである。もっとも、石碑の存在そのものは、資料館の記録にも登録があるとのことだった。思案にあまって、近世文学を専門とする博学の友人に尋ねてみた。いろいろ調べてくれたようだが、やはり不明だという。
「丹山」とあるから、朱の原料である硫化水銀、丹砂(辰砂)に関係しそうだが、このあたりに水銀鉱脈はないし、そもそもここは赤土ではない。学芸員の方の示唆もあり、浅間山との関係も考えたが、火山を「丹山」と呼ぶことはないように思う。
それでも付随していろいろなことがわかった。その石碑の建つ場所は、かつての諏訪神社下社の参道の入口あたりであったらしい。近くには、虚空蔵菩薩の石碑もある。
諏訪神社は、いま追分宿の中程にあるが、もともとは上社と下社に分かれており、明治になってから、下社を廃して上社に合祀したらしい。いまの諏訪神社は、もとの上社になる。
諏訪神社の御祭神はタケミナカタだから、諏訪大社を中心とする諏訪信仰がここまで及んでいたことになる。ただし、諏訪信仰を調べても、「丹山大明神」の名は現れない。
追分の諏訪神社の起源は、少なくとも中世あたりまではたどれるらしい。
諏訪神社は、いつもひっそりとしている。境内に、一茶の「有明や浅間の霧が膳をはふ」の句碑が建つ。『七番日記』に見える句で、故郷の柏原から江戸に向かう際、軽井沢宿で詠まれた。追分出身の書家、稲垣黄鶴(いながき・こうかく)の揮毫で、句碑は平成に入って建てられたから、古いものではない。
句碑といえば、浅間神社境内にある、芭蕉の「吹き飛ばす石も浅間の野分哉(のわきかな)」がよく知られている。『更級紀行』に見える句である。寛政五年(一七九三)、芭蕉百年忌にあたって建てられ、春秋庵長翠(しゅんじゅうあん・ちょうすい)の筆になるという。句もいいが、筆勢もまたすばらしい。
もし、「丹山大明神」について、何かおわかりのことがあれば、ぜひ御教示をお願いしたい。