雑感

たわ言

投稿日:2021年10月6日 更新日:

年寄りが「われわれの時代はこうではなかった」と、若い世代を批判するのは、大昔から繰り返されて来たことらしい。どう批判しようと、先の短い年寄りが負けるのは理の当然だから、何を言っても無駄口に終わることになるのだろう。

以下、無駄口に終わるのを承知の上で、思うところを述べてみたい。

最近、関谷ひさしの『ストップ! にいちゃん』を読み直す機会があった。1960年代に、光文社の月刊漫画雑誌『少年』に連載されていた漫画である。
公立中学を舞台とする学園ドラマで、主人公は野球部に所属する南郷勇一。そこに新聞部のサチコさんなどがからんだりして、さまざまな騒動が起こるのだが、明朗でカラリとしているところが、人気を博したのだと思う。ちょうど、私が中学生・高校生であった時期と重なる。

これを読み直して驚いたのは、部活動が生徒たちの完全な自主活動として行われていることで、教員も保護者も余計な口出しは一切しない。もっとも、ごく一部しか読み直していないから、そうした場面もどこかにあるのかもしれない。だが、基本はそう捉えてよいのではないかと思う。

そう思うのは、私が中学生・高校生の時期、やはりすべてが自主活動に委ねられていたからである。自主的にやれというのが、当時の指導方針だった。「自主・互敬・責任」が、私の中学校の校是だったが、これは民主主義の基本理念でもある。いまの新自由主義(ネオリベラリズム)の信奉者の中には、ネトウヨとやらがたくさんいるらしいが、この校是は、彼らがしばしば口にする「自己責任」と、似ているようでまったく異なる。「互敬」があることからも、それはあきらかであろう。戦後民主主義が、とにもかくにも機能していた時代である。

高校時代を思い返すと、生徒会の活動に、教員は一切関与しなかった。集めた生徒会費を、運動部、文化部で分配するのだが、それもすべて生徒が自主的にやっていた。私は当時、生物部に所属して、会計を務めていたが、前年度の収支を報告して、新たな予算獲得の交渉をするのが役目だった。交渉相手は、生徒会の役員である。
そこで、悪いことを覚えた。先輩からの口伝に従ったのだが、薬品を買う際、白紙領収書を何枚かもらい、それを操作して決算を水増ししたのである。役員との交渉術もそこで覚えた。大学の自治会の予算配分のやりかたを、高校でもやっていたのである。いまなら、とても信じられないことだろう。

私はやらなかったが、酒やタバコを口にする者もいた。麻雀屋に出入りする者もいたらしい。だが、教員の姿勢は一貫していて、教員の目に触れるところではやるな、警察の厄介にはなるなというのが、その教え(?)だった。いい加減な高校ではなく、かなり上位レベルの都立高校でのことである。

高校では、体育祭はすべてサボり、一度も出席しなかった。くだらないと思ったからである。その代わりに、仲間と近くの公園で野球などをしていた。それでも、叱られることはなかった。欠席届を出しただけである。文化祭では、前夜こっそりと生物の教室に泊まり込んだこともある。もちろん禁止された行為である。見回りの明かりが見えると、息を殺して隠れていた。

別に武勇伝を語りたいわけではなく、当時の高校が、いかに生徒の自主性に任されていたかを述べたかったからである。教員も勉強を教えるだけ。生活指導のようなことは、まずしなかった。いわゆる不良はいたが、それとのつきあい方というのも、皆が何となく心得ていた。

当時の都立高校は、管理職にならなければ定年がなく(真偽は未確認)、しかも名門校では平教員(ひらきょういん)の移動はほぼないから(本人の了解が必要だったのだろう)、親子二代で同じ先生に教わるということもありえた。都立の名門校はおそらくみなそうだっただろう。教員も時間がたくさんあったから、自分の研究に勤(いそ)しみ、立派な成果を上げる者もいた。

たぶん、戦後直ぐの頃から、私たちの時代を経て、大学闘争が高校闘争に飛び火していくあたりまで、こうした状況は続いていたのではないかと思う。
それがおかしくなるのは、学校群制度ができてからになる。制度導入の理由はいろいろあったようだが、結果として都立の名門校はすべて消滅してしまった。

管理教育が強化されるようになるのは、それからだろう。管理教育は、生徒への干渉を生むから、かつてのような生徒の自主性は認められなくなってしまった。保護者もそれを望んだから、管理と過保護という不思議なありかたが共存することになった。教員も、授業だけやればよいということでは済まなくなった。

生徒もまた、周囲から突出した行動を取ることを次第に避けるようになっていく。いまや、目立つ行動を取ると、いじめに遭うというご時世になったらしい。これでは、たった一人で国会前でストライキを起こした、スウェーデンの少女グレタ・トゥーンベリのような生徒など、まず現れないだろう。もっとも、最近のドキュメンタリー映画で、グレタは、行動の背後に自身のアスペルガー症候群があることを肯定しているらしいから(学習用英字新聞“alpha”の映画紹介記事に拠る)、そこは考慮が必要かもしれない。

管理と過保護は、昨今、ますます強められているように見える。大学の入学式に保護者が付いてくるようになったのは、いつからだろう(両親どころか祖父母まで!)。私にはとても信じられないことだが、それが現実である。もっとも、これを正面から批判するのはなかなか難しい。その理由は、このブログの「いただきます」で書いたこととも重なるから、関心のある方は、それをお読みいただきたい。

学生を見ても、しっかりしている者もいるにはいるが、総じて幼児化が進んでいる。だが、冒頭に述べたように、こうした批判は無駄口であり、結局は私の負けになるのは明らかである。

書架の隅に、『毛主席語録』の日本語版がある。文化大革命当時、紅衛兵が手に掲げていた、赤い小さな本である。後に反逆者とされた林彪の序文があるから、中国では禁書かもしれない。もっとも、近年、林彪再評価の機運もあるらしい。
その『毛主席語録』の「青年」という章に、次の一文がある。

世界はきみたちのものであり、また、われわれのものでもある。しかし、結局はきみたちのものである。

まことにそのとおり。世界はつまるところ、きみたち青年のものだと言っている。所詮は、そこに尽きることになるのだが。

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