「五輪狂躁曲」を書いたので、その関連で国歌と国旗について書く。
「君が代」は、中学生の頃からいい曲だと思うようになった。当時、外国のオーケストラの来日公演があると、冒頭で必ず両国国歌の演奏があった。1960年代のことである。当時はまだ文化親善の意味がつよくあったのだろう。
私が初めて来日公演を聴いたのは、1963年のロンドン交響楽団の演奏会で、指揮はアンタル・ドラティだった。本家本元の演奏ともいえるヘンデルの「水上の音楽」を聴いて、文字通り鳥肌の立つような思いがしたことを、いまでも鮮明に覚えている。
国歌演奏は、チェロなどは別として、奏者も全員が起立していた。その後、こうした場面に何度か出会ううちに、「君が代」のよさがわかって来た。
国歌の演奏は、いつ頃まで続いたのか。文化親善からふつうの音楽会へと変わっていく中で、徐々に消えてしまったのだろう。
「君が代」の歌詞は、『古今集』の賀の歌がもとになっている(『和漢朗詠集』などにも)。もともとは、年長者の長寿を祝う場で詠まれためでたい歌である。
「君が代」の「君」は、「大君」すなわち天皇でなければならない。「主権在民の世なのだから、国民一人ひとりへの祝福の歌と解すればよい」と主張する者もいるが、国歌の成り立ちを考えれば、その言い分には無理がある。だから、歌いたくないという者もいるのだろう。それはそれで尊重するが、私はこの「君が代」でよいと思っている。
一方の国旗である。「日の丸」は、国歌と違って好きではない。政治的な理由からではなく、美しくないと感じるからである。「ああうつくしい(や) 日本の旗は」という歌もあるから、美しいと思う人がいても、否定するつもりはない。どこまでも主観的な美意識の問題に過ぎない。
「日の丸」を美しくないと感じているのは、私だけではない。山下清『ヨーロッパぶらりぶらり』(ちくま文庫)を見ていたら、こんな記述があった。
……ぼくは戦争中は日本の旗が世界じゅうで一番りっぱな旗だと教えられたが、ヨーロッパの旗にくらべるとさびしすぎるので、コンコルド広場に日の丸がたくさんならんでいても、西ドイツの旗がならんだときのようにきれいではないような気がする。
画家の感性にもとづく発言であり、政治的な意図がないところに意味がある。日の丸はヨーロッパの国旗のようには美しくないといっている。これに全面的に賛同する。「さびしすぎる」といっているところは、実に鋭いと思う。
フランスの国旗は美しい。山下清が例に挙げているドイツ(当時は「西ドイツ」)の国旗も悪くない。英国も、地域の旗の組み合わせだが、やはり美しいと思う。反対に、ひどいと思うのはアメリカの国旗である。およそ美的でない。これなら、日の丸の方がまだいい。 とはいえ、以上は、繰り返すように、主観的な美意識の問題に過ぎない。そう感じない人がいても仕方がない。