雑感

五輪狂躁曲

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オリ・パラとやらがやっと終わった。面倒だから、以下、五輪と書くが、これについては招致段階から、この開催は道義的に許されないと考えていた。開催の旗印に「東北復興」を掲げたことが、破廉恥極まりないと考えたからである。原発事故の処理はその終わりがまったく見通せないし、そもそもあれだけの難民を作り出し、地域社会を崩壊させておきながら、その責任を誰一人として取らなかったという事実。いったいどこに「東北復興」の「証」なるものがあるのか。五輪開催を目指すほんとうの理由は、ただ一つ。これによって確実に利益を得ることのできる人間が存在するからである。そのなりふり構わぬあさましさには、まことに呆れ果てる。

そこに、今回のコロナ禍である。当然、五輪は中止になるのだと思った。ただ、ここでも利益優先の力学が裏側で働いたらしく、とうとう開催されてしまった。選手やスポーツ関係者から異論が出てもよいはずだが、どこからも聞こえて来なかったのにはがっかりした。唯一、まともな発言をしていたのは、山口香くらいであろうか。選手たちもまた、受益者の立場を捨てきれないのだろう。そう考えると、ベトナム戦争の際、投獄の危険をも顧みず、徴兵を拒否して、チャンピオンの資格を剥奪された、モハメド・アリのような人物は、やはり稀有の存在なのだと思う。

それゆえ、私は今回の五輪はいっさい無視することにした。テレビもまったく見なかった。そこに積極的な意味があるわけではないが、自分なりに筋を通そうと思っただけのことである。ところが、五輪終了後のどこかのアンケートで、「今回の開催を評価する」との意見が六割以上あったと聞いて、これには驚いた。このブログの「民主主義の危機」「ヒトラー『わが闘争』」を見てほしいのだが、これでは当分、新自由主義(ネオリベラリズム)信奉者の政権は安泰なのだろうと、実に暗い気持ちになったことを、告白しておく。

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