雑感

『聖書』を知ろう

投稿日:2021年8月30日 更新日:

1999年3月末から10ヶ月ほど、文部省の在外研究員として、ドイツに滞在した。その時の体験を、二松学舎大学図書館の「季報」というパンフレットに書いたことがある。「季報」は、学内向けに発行されるものなので、その内容が一般の目に触れることはほとんどない。そのことをずっと残念に思っていた。今回ブログを開設したので、ここに転載することにする。もとの題は「『聖書』の世界を知るために」である。
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もう十五年も前のことになるが、文部省の長期在外研究員として、ドイツに滞在したことがある。お世話になったのは、ボッフム(Bochum)のルール大学である。日本では、ボーフムと表記されることが多いが、現地の発音では、ボッフムに聞こえる。ルール工業地帯の真ん中で、デュッセルドルフにも近い。
ドイツ語がまったくできず、片言の英語だけで一年近くを過ごしたのだが、それで何とか生活できたことが、いま考えると嘘のように思われる。大学の宿舎近くに大きなスーパーマーケットがあって、そこで日常の買い物は済ませていたが、一度、言葉が出来ないために、ひどい目にあったことがある。そこのスーパーは、野菜などは量り売りで、自動秤に自分で品物を載せ、品名のキーを押すと、重さに応じて値段を記したシールが出てくる仕組みになっていた。ある時、ナスを買おうと思ったのだが、ナスのドイツ語名がわからず、宿舎に戻って和独辞典を引き、そこにあったEierpflanzeという言葉を覚えてスーパーに戻ったら、その品名がキーのどこにもなく、買うことができずにあきらめて帰ったことがあった。後でドイツ人に尋ねたところ、ドイツ語のナスはたしかにEierpflanze(英語のeggplantと同語)だが、そんな言葉はいまは誰も使わない。フランス語のAubergineのドイツ語読み、オーベルギーネを使っているという話を聞いて、ひどく驚くとともに、実に腹が立った。和独辞典の編者は、Aubergineはフランス語であって、ドイツ語ではないから、載せなかったということなのだろう。しかし、使う人のいない言葉を載せて、皆が使っている言葉を、外国語起源ゆえに載せないというのは、ずいぶんと愚かなことである。編者の杓子定規な頭に、いささかあきれ果てたことであった。

長々と書いたが、ここまでが実は前置きになる。ドイツ滞在中に、オペラを五十回以上も観て回った。もともとドイツに行く目的の半分はオペラを観ることだったから、ドイツ国内のあちこち、またウィーンやパリ、ロンドンあたりにまで足を伸ばした。
そこで、つくづく思ったのは、キリスト教世界に対する素養をまったく欠いている、ということだった。もっと具体的にいうと、『聖書』とりわけ『旧約聖書』の知識がなければ、オペラにかぎらず、ヨーロッパ世界の文化の本質を知ることができない、ということだった。ヨーロッパのオペラの最前線は、演出の時代ということもあり、賛否両論が分かれるような過激な舞台がしばしば見られるが、そうした新しい演出でも、キリスト教の世界像を前提としているものが少なくない。この滞在中、ワグナーの『パルジファル』を二度、バイロイト(その後突然亡くなったシノーポリの指揮)とドレスデンで観たが、その時は、クンドリーという謎の女の存在が、マグダラのマリアを象っていることに、まったく気づかなかった。「聖杯」伝説そのものは、何となく知っていて、美術館などで、キリストの磔刑図を見ると、右脇腹の傷から出た血を、天使が杯で受けているものがあって、なるほどこれが「聖杯」かと思ったりしていた。もっとも、磔刑図にもいろいろあり、右脇腹の傷を描かないものもかなり見られ、なぜそうした違いが生ずるのか、いまだにわからずにいる。クンドリーについていえば、三年前、エストニアのタリンで、三度目の『パルジファル』を観た時は、『聖書』の知識が多少はあったので、パルジファル(pure and foolの意)の足を洗う場面がなぜあるのかを理解することができた。マグダラのマリアが、キリストの足を洗い、長い髪でそれを拭い、香油を塗ったことに重ねているのである。

ここで、『聖書』の世界を簡便に知ることのできるトンデモ本を紹介しておく。中丸明『絵画で読む聖書』(新潮文庫)である。トンデモ本と書いたのは、登場人物の会話が、すべて名古屋弁で記されているからである。たとえば、モーセが率いた出エジプトの苦難の旅の途中に、マナという不思議な食べ物が出てくるのだが、それを味わった人びとは、「めちゃんこ、美味(うみや)ーあだでかんわ」などと言ったりする。
しかし、存外真面目な本で、主要場面を描いた様々な絵画(印刷は粗末)とともに、『聖書』の世界を早わかりのように、しかも面白おかしく紹介してくれている。『聖書』は、殺人、不倫、近親相姦などの話、あるいはきわめて不合理な話に満ち満ちていて、私のような不信心者は、そこにいたく興味を覚えるのだが、この本は面倒な解釈には一切立ち入らない。あくまでも不信心者の目線で、内容だけを紹介してくれているので、それがまことにありがたい。たとえば「イサクの供犠」など、どう考えてもひどい話としかいいようがないのだが、神学的には深淵な議論の対象であるらしい。近年のものでは、関根清三編『アブラハムのイサク献供物語』(日本キリスト教団出版局)があり、この話がいかに哲学的・神学的な奥行きを抱えた問題であるかが論じられている。中丸氏の本は、不合理は不合理のままの紹介に徹しているから、むしろ素直に読むことができる。
いずれにしても、ヨーロッパ文明の底流にあるキリスト教の信仰、その根幹となる『聖書』の内容を簡便に知るのに、この本はまことに打って付けであるように思う。ぜひご一読を。(2014年8月記)

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